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働くママの育自エッセー《毎日がつなわたり》
写 真

  もうじき娘が2歳になるという頃、どこで調べたものやら、写真館からDMが舞い込んできた。お姫さまみたいな服で記念写真を取るたぐいのものは、わたしも連れ合いも苦手なのでパスしたが、それでももちろん、かわいい盛りの写真を残しておきたいという親心はある。

 事実、娘が笑うようになってからは、一眼レフで娘のどアップの写真を撮ることにしばらく執心していた。「フィルムをけちっていてはいい写真なんて撮れない」と、かつてプロのカメラマンに教わったこともあって、「決定的瞬間」を逃すまいと、どんどんシャッターを切っていったら、とんでもない写真とネガの山ができた。

 何度も整理しようと思ったのだが、なかなかできない。忙しくて時間がないためばかりではない。ピンぼけだろうが、目が半分閉じているのだろうが、見ようによっては可愛かったりするもので捨てられなくなる、自分の思い切りの悪さに我ながらあきれた。

 それじゃあ、撮り損ないもふくめてぜんぶ取っておこうと、腹をくくってでっかいアルバムを買い込み、今度こそ……と思ってはいるのだが、毎回、作業の途中で、いたずら盛りの娘の手が届かないところにしまいこむはめになるもので、いちいち出すのが面倒になり、なかなか進まない。かといって、このまま袋に突っ込んでおくわけにもいかない。どうしてこんなにいっぱい撮ってしまったものかと、とほうにくれてしまった。

 それでもやっぱり写真はいいものだ。娘が生まれたとき、実家の母が古いアルバムを送ってくれた。わたし自身の誕生から2歳くらいまでの記録だ。時代をしのばせる少し小ぶりの白黒写真のわたしと、今の娘の写真とを比べてみると、ひとつひとつの顔の造作は違うのに表情が驚くほど似ている。そんな発見は、理屈抜きにうれしい。

 古い写真を見ていて、もうひとつ気づいたのは、そのカメラ視線に愛情が感じられることだった。子ども時代のわたしの一瞬のしぐさ、表情をとらえるために、両親が必死でファインダーを覗き、シャッター・タイミングを狙っただろうことは、今のわたしにはありありと想像できる。子をもてばわかる親の愛とは、このことか。

 ところで、娘を産んだ直後、一種のマタニティー・ブルーだったのかもしれないが、わたしはサルっぽい顔から人間の赤ん坊らしい表情に刻々と変化していく娘を見ながら、命の哀れさを思った。命の一回性とでも言うのだろうか……はかなさを感じさせる赤子を抱きながら、生まれ落ちたその瞬間から、やがて訪れる死に向かって突き進んでいくしかない人間の哀しみを思って……涙がこぼれた。

 音もなくこぼれ落ちる砂のように時は過ぎ、形あるものはやがて失われる。だからこそ人は、生きている「この瞬間」を記憶にとどめるために、さまざまな記録媒体を生み出してきたのだろうか……。

 そのとき感じた胸の痛みを伴う強い愛情は、あわただしい日常のなかですっかり薄れている。だけど生後数日間の娘の写真を見ると、そんなこともあったなと思い出し、いま現在の娘へのいとおしさを書きたてられる。そんなふうに、過去の写真は今を再構成してもくれる。  だからこそ、いつの日か「ママはこんな風に思ったんだよ」と語りながら見せてやるためにも、娘の写真をきちんとアルバムに整理しておきたい……のだけどなぁ!

【筆者プロフィール】

しみずくみ

フリーランスで翻訳/執筆業を手がける傍ら、育児支援グループやミニコミ作成など、コミュニティーの活動にも精力的に関わる1児の母。
「違いがあれば豊かになれる」がモットー。

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最近、助産婦の坂本みゆきとの共著で『お産ルネサンス』を出版。
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